道の駅よかわ
〒673-1114 兵庫県三木市吉川町吉安222
0794-76-2401
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「山田錦」は、六甲山脈北側の谷あいにある棚田の特質を活かして、大正の末期から昭和の初期にかけて灘の酒造家との堅い絆を保つために、万難を乗りこえて新しい酒米品種として生まれました。「酒米買うなら土地見て買え」といった心意気をもって産地を育くんだ酒造家の先人もすばらしいのですが、その後「山田錦」に勝る品種が生まれていないところを見ても、酒米生産に心血を注いだ先人たちの努力に敬意を示さずにはいられません。
三木市の山田錦は、令和7年1月24日(2025年)に「兵庫の酒米「山田錦」生産システム」として日本農業遺産に登録されました。
ここでは、兵庫県農事試験場で、昭和11年(1936年)に産声をあげてから現在に至るまで、世界中の人々を魅了し続ける酒米の王者「山田錦」の特徴や歴史をご紹介します。
大正12年(1923)に兵庫県立農事試験場・種芸部(当時、兵庫県明石市)で「山田穂」(母親)と「短稈渡船」(父親)を交配し、13年後の昭和11年(1986)に「山田錦」が誕生しました。当時、良い酒米として栽培の多かった「山田穂」の草丈を短くして、倒れにくくするため、革丈の短い「短稈渡船」と交配が行われました。担当したのは、種芸部の西海重治氏と言われています。その後、河淵健蔵氏、三宅瑞穂氏、島田豊吉氏、本坊大古氏、小林三雄氏らが育成を担当しました。昭和6年に「山渡50-7」の系続名が付けられ、昭和7年からは、酒造米試験地でも品種比較試験が行われました。また、三木市吉川町をはじめ県下各地で試験栽培も行われ、収量が多く品質が優れていたので、昭和11年1月31日の水稲原種改廃協議会で、「山田錦」と命名され、デビューしました。もともと品種名は「昭和」とする予定でしたが、母親の「山田穂」にちなんで「山田錦」となりました。
山田錦の母である山田穂は、吉川町の田中新三郎氏が伊勢詣の道中、伊勢山田の近くで背丈が高く穂も大きい、魅力的な酒米をみつけ、それを持ち帰って栽培されました。当時は藩政時代から続く伊勢詣りを楽しむ習慣があり、そこで旅人同士が交流し、新しい知識を得ることも多かったのです。
その後、立派な酒米として実り、酒造家からも好評を博することができたため、豊受大神をお祀りする伊勢山田にちなんで「山田穂」と名付けたと伝えられています。
兵庫の酒米は、伊丹、池田、灘の酒造りの発展とあわせて、江戸時代から多く使用されました。
摂津や播磨の米が中心で、播磨では、美嚢郡、加東郡、明石郡の鳥居米、金谷米などが有名でした。藩政時代は、米の検査がとても厳しく、米を蔵に収める際には、吟昧役(検査官)二人が俵から検査米を抜き取り、不合格品については再調製が命じられ、夜を徹して選別が行なわれていたと言われています。また、量については、5斗入りの俵(約75kg)に対して、2升5合(約4kg)も余分にお米を入れていました。このような努力や伝統が、酒米産地としての発展につながっています。
明治の初め頃までは、どのような品種が酒米として栽培されていたか、記録がありません。
明治20年頃になると、「山田穂」や「奈良穂」などの品種名が出てきます。明治から大正時代は、お米の品種数は非常に多く、県下で約1500種類もありました。県の農事試験場では、良質なお米の生産のために、優れた品種の選定と種子の配布を大正5年からはじめました。最初に配布した品種が、「山田穂」と「渡船」です。大正12年からは「交配育種法」による品種改良が行われ、その第一号が「山田錦」です。「山田錦」は昭和11年に奨励品種に採用され、昭和16年頃までは、「辨慶とともに多く栽培されましたが、昭和20年の終戦前後は食糧増産のため、生産できなくなりました。再び生産が増えてきたのは昭和25年頃からです。
その後も時代の流れとともに生産量は増減し、品種も変わっていきますが、兵庫の酒米は多くの先人の努力により、「山田錦」を中心に、全国一の生産を続けています。
酒米の碑
村米制度とは、播州地方の酒米産地と灘五郷をはじめ特定の蔵元(酒造業者)との間で結ばれる、酒米取引制度(現在の契約栽培)のことを言います。明治7年の地租改正により農家が納める税金はお米からお金に変わりました。このため、農家では収量を重視するようになり、お米の品質が落ちてきました。一方、お酒の需要が増加し、蔵元では酒米を確保しようとしました。その結果、品質の良い酒米を求める蔵元と安定した販売先を求める農家の思いが一致し、村米制度がはじまりました。
村米制度のはじまりは二説あり、明治26年に古川町市野瀬の山田篤治郎氏が発起人となり、西宮にある蔵元の辰馬悦蔵氏と交渉し、取引を開始した説。もう一説は、明治24~ 25年頃に加東郡社町上久米集落が、灘の本嘉納商店と取引を開始したことです。
現在も三木市吉川町を中心に、村米制度が残っています。干ばつや水害、震災などの際にはお互いに助け合うなど、単に酒米の取引だけでなく、強いつながりが続いています。
村米制度発祥の地碑
酒米試験地と育ての規・藤川禎次
藤川禎次氏は、明治28年(1895)加東郡瀧野村ノ内高岡村(現、加東市滝野町)の農家に生まれました。兵庫県立農学校を卒業し、大正15年4月からは、加東郡農会で農業指導にあたっていました。昭和3年(1928)、加東郡社町沢部に酒造米試験地(現、兵庫県立農林水産技術総合センター 酒米試験地)が、酒米の振興のため設立され、初代主任として赴任しました。藤川氏は、酒米について情報がほとんどない時代に、腹白米や心白などの玄米品質を、熱心に研究していました。当時の細かな穂や玄米品質のスケッチが今も残っています。昭和8年からは三木市吉川町金会の東田直太郎氏の協力を得て現地試験を実施し、三木市吉川町までの片道約20kmの道のりを自転車で頻繁に通い、調査を行いました。こうした努力の結果、昭和11年に「山田錦」が誕生しました。藤川氏は、その品種育成と普及に貢献したことから、「山田錦の育ての親」と呼ばれています。
山田錦デジタルミュージアムでは、酒米の王者「山田錦」についてより深く学ぶことができます。
山田錦の栽培や日本酒に関する情報、生産地である三木市吉川町の歴史や風土を学んで、見学後はぜひ試飲や店頭販売でお気に入りを見つけてみてくださいね!